アガサ・クリスティ『春にして君を離れ』

クリスティのノンシリーズ物。
娘の看病のためにバグダッドを訪れ、そこからイギリスに戻る途中の、「理想の家庭」を作り上げてきた中年女性が、大雨の影響で途中での滞在を余儀なくされ、物思いにふけるうちに、これまでの人生に対する認識が反転し…。

主人公である女性の回想によって話が展開するのだけれど、さすがはクリスティひとつひとつのエピソードの描写が巧い。

読者が嫌いになるようなキャラを出してくるのはよくあることだけど、この小説が珍しいのは、主人公を嫌なキャラに設定し、かつそれを一人称的に描いていること。
普通の小説だったら、主人公に感情移入しにくくなるのは避けると思うけれど、この小説では、エピソードの回想として描くことで、主人公への感情移入のしにくさを避けているし、また対照的な存在として導入では女学校時代の友人であるブランチ、その後は夫を置くことで、そっちに感情移入して読み進めていくこともできる。

主人公は最終的に、自分自身が家族や友人という他者にどう思われているのかということに気づく(というよりも、心の奥で最初から分かっていなければ、このように選択的にエピソードを思い出すことはできないだろう)。
けれど、無事にロンドンにたどり着いた際に、変わることを選択するか、気づいたということをまた心の奥底に押しのけるかの岐路に立たされ、結局後者を選ぶ。
エピローグとして、後者を選んだ主人公を観察する夫(先に述べたとおり、子育てや人付き合いにおいて主人公と対照的な存在として描かれている)の視点の文章が挿入される。

ここまで読み進めて、主人公のような「理想の家庭」という名の紋切り型の幻想にマイナスの感情を抱き、陰に対する光のように描かれている「夫」のような「人としての余裕」や「人と向き合うこと」を肯定的に捉えてきた読者に対して、夫のような生き方もまた、他者にどのように観られるか、ということばかりを考える生き方にすぎないことに気づかせるような終わり方となっており、非常に面白い小説だった。


春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)